牧師さんと殺人犯

「チャネル」というキーワードでハードディスクを全検索していたら、偶然、21 歳のときの日記がひっかかった。

前後の日記を読むと、この頃は「人間関係とは?」みたいなことについてよく考えを巡らせていたようだ。とはいっても別に人間関係について悩んでいたわけではなくて、今もそうだけれど、意味もなくいろいろ考えてとりあえず文章にしてみるのが好きだっただけである。

1998/04/26

「人格者で近所でも有名な牧師さん」と「極めて凶悪な連続殺人犯」のように極端に考えてみればわかりやすいのかもしれない。

そう、例えば池袋駅の構内で、ある日のある時間、その二人はわずか 30cm の距離に並んで立っている。牧師はこれから教会に戻るのかもしれないし、殺人犯はさらに誰かを殺しに行こうと思っているのかもしれない。

そこに改札から出てきたお婆さんが、

「北口ってどこにあるのかねぇ」

と、どちらに聞くともなく質問する。

その日、たまたま牧師は機嫌が悪く、また殺人犯はたまたまとても気分が良かったのかもしれない。牧師は知らないと断ってそそくさと立ち去り、連続殺人犯はちょっとした気まぐれで北口まで丁寧に案内した。そして、その二人とお婆さんは今後二度と会うことはない。

さて、お婆さんはどちらの人間に良い印象を抱くだろうか。

この場合、当然殺人犯の方であろう。

人間が人間に対して行う評価なんて、とても脆くて危うい。

その人がこれまでにどんな素晴らしい人生を歩んできて、心の中ではどんな高潔なことを考えているかなんて人間関係という観点から見ると全く意味がない。

意味があるのは、ただ単純にその人が相手に対してどのようなアウトプット(言葉や表情や仕草など)をして、相手がそのアウトプットをどのようにインプットするかということだ。いいかえれば、両者間のチャネルのやりとりのみに意味があるということだ。

だから「俺はホントはこんないい人間なのにまわりがわかってくれない」と思ったら、「俺はホントの自分とアウトプットが一致する能力に欠けている」と反省しなければならない。「彼はとても性格のいい人間だ」という評価は「彼は性格の良いとまわりから思われるようなアウトプットを多くする人間だ」といった方が正しいのかもしれない。

なんかまとまらないからそろそろ寝ることにしよう。いつも書いてる気がするけど来週はパーフェクト出席目指すぞ。あと仮眠も。

なんか何が言いたいのかよくわからない文章だ。

「わずか 30cm の距離に並んで立っている」という表現が、あきらかに当時大好きだったウォン・カーウァイの『恋する惑星』のフレーズの影響を受けていてちょっとカワイイ。さすが 21 歳。

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