今日は予告通り司馬遼太郎エントリーということで。

司馬良太郎の本の中で、読了してるのにエントリーしてない本は結構あるのですが、今年2005年はポーツマス講和会議からちょうど100周年!ということで、まずは『坂の上の雲』について思ったことなど筆の赴くままに書いてみたいと思います。

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今から100年前、日本はロシアと戦争をしました。日露戦争ですね。

この『坂の上の雲』という歴史小説は、中学校の歴史の教科書にはたった1ページ足らずしか取り上げられないようなこの戦争を1632ページにもわたって淡々と記録したものです。

『坂の上の雲』は経営者にとても人気のある本です。

ビジネス雑誌などでよく企画される「経営者の推薦本」や「私の座右の書」とかには必ずといっていいほど上位にランクインしていますが、なんでこれほど人気があるんでしょうか?

数年前に読んだときはよくわかりませんでしたが、今回、読み直してみてはっきりとわかりました。

この小説の特徴のひとつに、日露両国のさまざまなリーダーのいろんな局面における状況判断や決断がやたら詳細に描かれているというのがあります。日本でいえば、大山巌や東郷平八郎、ロシアでいえば当時世界最強といわれたロシア陸軍を率いたクロパトキンや、バルチック艦隊を率いたロジェストウェンスキーなど。彼らの刻々と変わる情勢に対する決断や危機が迫ったときの態度の違い。戦争という極端な状況だけに、その違いは驚くほどくっきりと現れます。

特にロシア軍のリーダーたちは、後世にいる僕から見ると弱腰だったり優柔不断に見えたりでよほどの愚将に見えました。でも、読了後よく考えてみると彼らが愚かであるわけがないんですね。そのころすでに世界の一流国として成熟しきっていたロシアにおいて、軍隊のトップまで上り詰めたエリート中のエリートが愚かだったわけがありません。

彼らを将軍としてみたときに足りなかったものがあるとしたら、それはたぶん胆力といわれる力だったり、覚悟であったり、ただひとつの目的に対する忠実性だったのかなと思います。そして、そのようなリーダーに不可欠な資質についてに気づかせてくれるからこそ、この小説は経営者に人気があるのかもしれません。


もうちょっと書きます。

僕は幕末の武士が持っている思想の純粋性がとても好きなのですが、このころの明治日本人からも似たような純粋性を感じ、たびたび感動で心が震えました。

以下、ちょっと長いですけど引用します。

維新によって日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。たれもが、「国民」になった。不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。このいたいたしいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。

いまからおもえばじつにこっけいなことに米と絹のほかに主要産業のないこの百姓国家の連中が、ヨーロッパ先進国と同じ海軍をもとうとしたことである。陸軍も同様である。人口五千ほどの村が一流のプロ野球団をもとうとするようなもので、財政の成り立つはずがない。

が、そのようにしてともかくも近代国家を作り上げようというのがもともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民たちの少年のような希望であった。少年どもは食うものも食わずに三十余年を過ごしたが、はた目から見るこの悲惨さを、かれら少年たちはみずからの不幸としたかどうか。

いうまでもありませんが当時のロシアは第一級の近代国家で、世界最大の陸軍兵力を持ち、文字通りの帝国主義国家でした。そして、そんなロシアが凍らない港を求めて、満州、そして日本の植民地化を狙い南下してきたのを、当時の少年のような日本人たちは、国民全体で協力し、多くの犠牲を払ってかろうじて勝ちに持ってゆきました。

もし負けていたらどうなっていたか。

朝鮮はもちろん植民地化され、日本もその大部分の領地を植民地化されていたでしょう。賠償金をとられ、もしかしたら今のチェチェンみたいに悲惨な独立戦争の毎日かもしれません。戦争を肯定するつもりは全くありませんが、そういうことを考えると純粋で勇敢な明治の日本人に感謝せずにはいられません。僕らにはすばらしい祖先たちがいたんです。

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