立ち上がる感情は文脈によって「上書き」される

久しぶりに『キラーチューン』のムービーを観たら、軽く東京事変なモードになってしまったので、iTMSで『スーパースター』のライブムービーを購入してみました。

結構前に、椎名林檎がイチローをイメージしてこの曲を書いたみたいなことを、なんだか中学生みたいな初々しい表情で話していた番組があって、それをYouTubeかなんかで偶然観たんですね。

その番組を観てから通しで聞くのは、これが初めてだったのですが、前とは随分違った感じに聞こえるようになっているんです。うまくいえないのですが、歌っているときの表情や声になんとなく切実さを感じるというか。

もちろん前に見たときと全く違う印象です。そして印象が変わったのは、明らかにその番組を観たのが原因なわけです。

つまり、同じ曲を聞くのでも、その曲に関する文脈をどれだけ自分が受けとめているかで、そこに立ち上がってくる感情が変わってくるということなんでしょう。

人と話すのとかも一緒で、その人に関する文脈をどれだけ自分の中に積み重ねているかで、立ち上がってくる感情が変わるってこともよくあります。

冬の夜道を歩くときとかも、その人がその時点で引き受けている文脈によって、寒さが心地よく感じたり、鬱陶しく思えたり。

で、なにがいいたいかというと、そんな中で、ふと、危うい気持ちになることがあるということ。

それは、『スーパースター』の例でいうと、番組を観る以前の気持ちで同じ曲を聞くことができなくなっているという当たり前のことです。おそらく、そのときの気持ちに戻ることは二度とできない。それは、自分の中の感情の機構みたいなものが、あたかも日々流れてくる文脈によって「上書き」されてしまっているようで、とても儚さを感じます。たぶん非可逆な上書きじゃないってのが救いだけれど、それでも平衡は随分右に寄ってる気がします。

それにしてもムービーっていいですねぇ。ずっと我慢してるiPod Touchに心が傾きます。

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