数奇にして模型

講談社
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読了(2006/05/07)

ひっかかったセンテンス

「フィギュアですか? それじゃあ、犯人は模型マニアだと?」萌絵はわざとオーバーに言った。
「あんなもんは模型じゃない」長谷川は口を大きく開けて煙を吐く。「模型は型(かた)だ。人形は形(かたち)。字が違うだろうが?」
「どう違うんですか?」犀川が片手で煙草を回しながらきいた。
「人間の作ったものだけが、模型になるんだ。動物も植物も、模型にはならん」
「何故です?」犀川はすぐに尋ねる。
「そりゃあんた……、自明のことだ」長谷川はまた不機嫌な表情に戻った。「動物とか人間を小さく作っても、それは単なるミニチュアだ。モデルではない。いいかね。模型が模するのは、形ではない。ものを作り出す精神と行為だ。人が生産する意欲と労力を模するのだ。それによって、その原型を作り出した人間の精神を汲み取る。しかしだ、全く同じ行程を踏めば、それはレプリカになる。また、多くの精神に触れるには、制作時間をできるだけ縮小しなくてはならん。だから型を模することになる。型とは、制作システムの象徴だ。単に形を縮小して模するのではない。型を模する。それがモデル、すなわち模型だ。そこがわかっとらん連中がごまんといるんだ。形にこだわることは、ただのコピィだな。そもこにあるものは、想像力の貧困さと、単なる妄想だけだよ」 (P513)

「形とは、すなわち数字の集合だよ」犀川は煙草を指先で回しながら答えた。
「数字?」萌絵はきき返す。
「数字だけが、歴史に残る」犀川は言った。「残らないのは、その数字の意味、すなわち数字と実体の関係」
(中略)
「形は、数字に還元できる。図面にも映像にも、還元できる。ドキュメントとして保存することが可能であり、それはほぼ再生される。コピィできるものは、すなわち形だ」犀川は続けた。「けれど、形のコピィに何を見るのか、という点に、その時代と、その人物の技量が影響する。形だけに拘ったものには、伝達されない情報がある。それがつまり、あの長谷川って人が言っていた、形を作った意志、つまり型なんだ。作った本人は、その形に何か別のものを見ていたのに、それをコピィしたものには、それが伝達されない。そこで、抽象の手法が模索された。これまで伝達されなかった情報、形にならなかったものを、なんとか描こうとした、それが抽象芸術だ。でも、やっぱり、本質は伝わらないということがわかった。ようするに、伝達に際して、この最も肝心な情報がいつも抜け落ちることになる。これが、これまでの人類の歴史の中で、実に大きな障害だった」
「その障害は取り除かれたのですか?」
「まだ」犀川は首をふった。「しかし、コンピュータ関連のテクノロジィが、いずれ、これを部分的には解決するだろうね。簡単にいえば、不足していたのはメモリであり、解像度であり、処理速度だったわけだ」 (P525)

その不足分が、いわゆるメタ情報といわれるものだろうか。コンテキストといったらいいだろうか。

確かに、現在まで受け継がれている情報(書物など)に、同時に意志などのメタ情報が付与されているものは少ないように思える。それらを確かにしていくことが学問になっていることがその証拠だ。

この辺は、司馬遼太郎先生がよく書いていた「トゥルー」と「ファクト」とかと関連していきそうな気がするなあ。

人の印象とは不思議である。生理的に受け付けないと思っていた人物が、多少、予想と異なる仕草をしただけで、好意的に見えることがある。この正反対の事例も多い。そんな瞬間というのは、まるで、ポジフィルムがネガフィルムに反転するように基準が入れ替わる。 (P549)

そういう瞬間の脳は、どのような働きをしているのかを知りたい。

「そうじゃないかな? 上倉さんと寺林さんがどんな関係だったのか、僕は知らんよ。研究室の外で何をしてくれてもかまわない。かれらがどんな価値観で、どんな行動をとろうが知ったことじゃない。ただね、急にいなくなられては困るんだ。これは人間として最低限の条件だ。たとえば、自殺するなら、一週間はまえに言ってもらわないと、実験のスケジュールに支障がある」河嶋はそこでまた笑った。「君、これが冷たい言い方だと思う? もしそうなら帰りなさい」 (P554)

どこが気になったか不明だけど、何となく好きだったので。

人体とは、実に不思議なメカニズムである。子供の頃には、過激な運動をすると、その日のうちに躰が痛くなるのに、大人になり、年を重ねるほど、この反応が遅くなる。自分自身を騙す機能が成長するのか。躰に対しても、精神に対しても、騙そうとする機能、それはおそらく、誰もが逃れることのできない、最後にやってくる最大のショックに備えるためなのだろう。こうしてみると、人生の後ろ三分の二は、死ぬための準備で生きているようなものだ。一日の三分の二を、晩餐の準備に費やすのと同じ。個人がそうであるように、人間が作り出した社会もまた、すべてこの三分の二の法則に従っている、と犀川は思う。
たぶん、死を迎えるための高貴なる欺瞞を、「成熟」と呼ぶのだろう。 (P654)

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